人は自分を映す鏡

自分が性格悪くて気にしすぎな故に、相手のことまで悪く思っている事実があるかもしれない。

人が内心で何を思っているか、何のための行動なのか、何から発生した言葉なのか、こちらがいくら推測っても実際のところがわかることはあるはずがない。

それなのに自分から見えている相手の一部を切り取って推測しようとすれば、当たり前に自分の思考回路がトレースされるのではないだろうか。

『自分であればこう思う』『ただ相手の性格はこうだろう』『だから自分が思う中でも相手の思考回路はこれだろう』最終的にどのような結論が導き出されようと根拠の起点は全て自分の思考ありきであるから。断定できるのは自分のことだけだ。そして自分の思い付かないことは当てはめられない。

それならば、相手に思うところがあるのであれば実は自分に思うところがあるというのが自然か。深刻に受け止めなければならない問題だと強く思う。

 

『人こそ人の鏡なれ』『人は自分を映す鏡』

自分のなり振りが身近な人間に影響を与えるものなのだから、思うところがあるのであれば他人から学びまずは自分を正せ という意味で捉えていたことわざだけれど、今は少し違うように感じる。

あくまでも、動きの主体は自分であり、まるで相手はリフレクションするただのミラーであるようなニュアンス。影響を与えるなどと烏滸がましい自己中心的な意識が絡んで歪曲している。もっと自分と相手とを精一杯乖離させなければと、痛く重く感じる。

×自分→相手

相手=自分としてしまうとさらに烏滸がましい。独立した相手一個人が自分の世界に視界に存在する限りの上では自分の一部であるというわけでもない。自分が80億人いることになってしまいちゃんちゃらおかしい。そんな絶望的な世界は耐えられない。  

×自分=相手

 

では結局相手と自分の繋がりは何といえばいいのかわからない。認知の歪みを起こしてきた気がするし全然接続詞が使えず意味不明になってきたので今日はこのあたりでやめておきたい。もう無理だ。わからないけど、とにかく、ピースをはめるのではなく、多角的に自然に広げていきたい。相手の像を作り上げたくない。

△?自分←相手

 

相手の一挙一動を本当にそのまま受け止めることができて自然な自分のレスポンスで人間関係が上手くいく人たちはどうなっているの?何もかもが一致していなくても、軌道を修正したり歯車を回す手法が性格の良さか地から湧いているのか?

○?自分⇄相手

 

気にしすぎて身動きが取りづらいというのであれば相手の思考や言動を無駄に深読みするのではなく自分の性格の悪さを気にするのが有意義だ。わたしは気にすべきところが間違っていた。性格の悪さを棚に上げて『気にするわたし』という性格が良さげに見える演出の自分に酔っていただけだ。反射していたのは性格の悪い自分だ。